さて、その後ついに親にパソコン買ってくれ攻撃が始まった。もう毎日毎日勉強するから!とか勉強できるソフトがあるから!とか狂ったように言っていたのがついに実り、我が家にパソコンが来ることになった。当時は両親が作ったバーが行列ができるほどの大当たりをし、余裕があったのが幸いした。
買ってもらったパソコンは日立 BasicMasterJr。こいつはカツカツという小気味のいいクリック音が鳴る今見たらキーボードだけ?と思う形のパソコンだ。カタログはこんなで、画面はこんな感じ。この画面はJr.ではなくL2なんだけどまぁ一緒と思ってもらってOKだ。文字数は32x24。しょぼいねぇw、Winのノートパッドより狭いし、漢字は出ないしw。保存する場合はカセットテープで、スピードは300bps(w。
今のインターネットは24Mbpsとかが普通だが、24Mbps=24000000bps、300bpsということは8万分の1?、すごいなぁ。こいつはちょっとしたプログラムを保存しようとしてもものすごい時間がかかり、時間が長いということはエラーが発生する確率も上がるということなのだが、小学生の小遣いで買ったショボイカセットテープはよくエラーが出てデータが消えた。。なので必ず2回保存したりしていたが、間違って上書きしてしまうことも多々あった。。。
まぁやっとPCと学習ソフトを手に入れた俺は狂ったようにゲームで遊び、勉強なんて買う前よりしなくなってしまった。学習ソフトなんてほとんど使っていないw。もちろんゲーセンはゲーセンで通っていた。親はだまされたと思っただろう。しかし多少グレてしまっても後々その方面で仕事をし、仕送りをしているので間違いでは無かったんだなと思っていると思う。まぁ結果論なのだが・・・。
毎日遅くまでこいつでプログラムを作り、あそこにパソコンがあったらなぁと夢見た場所においてある空想じゃないパソコンを二段ベッドの上から眺めながら、早く明日にならないかなぁと寝たものだ。
次回は中学に入学したあたりにまた親を騙してHitachi MB-S1を買ってもらったところから話そうかな。この話の後はグレっちゃってくので、やめとこうかな・・結構な人生の汚点なので。
まぁ次回につづく・・
前回は、スポンジのようにプログラミングを吸収した、という所で話が終わった。それの続きなのだが、もう本当にハマってた俺はその電気屋へ毎日閉店までいた。その電気屋、中村電気にはすごいきついおばさんがいて時間になると中々帰らない俺らにしびれを切らし容赦なくブレーカー毎電源を落としてしまう。これは参った。作ってるプログラムを保存する前に電源を切られてしまうのだ。ほんと泣いた。当時はまだフローチャートなんて物は知らず、行き当たりばったりでプログラムしていたからせっかく試行錯誤して作ったサブルーチンがパー。記憶にもなし。次の日はまた同じ所で悩む羽目になる。
もうこんな所では無理だ、と悟った俺らはどこか他の所にないかと探し始めたら、「俺の親戚が電気屋やっててパソコンあるよー」と教えてくれた神のような友がいて、早速その電気屋に移動。入ってみるとなるほど、BasickMasterJrが1台おいてある。「これ使っていいですか?」と聞くと「いいよ」とのこと。さっそくそこに毎日通うようになる。
そこは「ヒカリ電気」という日立の電気屋なのだが、ここには本当に世話になった。今の俺があるのはここのおかげかもしれない。いや、ここのおかげだ。早速ここへ師匠も連れて行き、何年も毎日毎日通ってプログラミングを勉強していったのだが、だんだん仲間が増えていって最終的には7〜8人になった。
数年後、そこの電気屋は改装してデカデカと「日立パーソナルコンピューター」と書いてある看板を掲げ、中には長いカウンターを作ってパソコンを一杯並べてくれた。ほんと感動。ここまで書いていて気づいたがこのころは感動ばっかりだなw。
初期の頃は覚えていないがそこのカウンターに並んだパソコンは最終的に、FM77AV、S1、Level3Mark5、H1。これくらいだったかなぁ。みんな並んで毎日ゲームしたりプログラムをしていた。本当に充実した毎日だった。本当に楽しかった。
余談だが、改装後のその店の正面は全面ガラス張りになり、力強く歩いてきてはガーーーンと顔面を打付けて後ろに転がるバカが良くいた。
つづく
さて、とうとうパソコンでゲームができたのだが、同じクソゲーをずっとやっていて飽きてしまったという状態になっていた俺は、「あのニーチャンにくっついていると面白いことがあるかもしれない」と考え、毎日そのニーチャンにくっついて彼がプログラムを組んだり遊んでる所をそばでじっと見ていた。よくいやがられなかったなぁ・・と思うがそのときの俺は、自分でゲームが作れてしまうという未知の物「パソコン」をなんでもいいから知りたい!という欲求がMAXになっており、人の目なんてまったくお構いなし。ほんとにスポンジが水を吸収するように覚えていった。
そのニーチャンはちょっと意地悪な面もあり、プログラム中の構文で「これはこういう動きをするんだよね?」とか「Gotoは解るけどGosubって何?」と質問すると「GosubはGotoの親戚」等という訳のわからない説明しか帰ってこない。しかしそれにもめげない俺は、本を読んだり彼にしつこく質問をして学習していった。たしかに今考えるとこんなクソガキがまとわりついてきて、色々質問されたら「ウザイな!」と思うのは当然だろうなぁ。
この時の彼が俺の師匠になる。というか勝手に師匠にした。一応彼にも名前はあるのだが(あたりまえだ)、当時あだ名を付けるのが得意な俺は髭を生やして長髪でもじゃもじゃの彼の事を「もんじゃ」と名付けたw。それからずっと周りのみんなも「もんじゃ」と呼ぶことになる。彼にとっては迷惑極まりない事だっただろうw。
ちょっとゲーセンでの遊びに話を戻そう。同じ頃、電子ライターという物が世間で流通し出していた。どこで情報を仕入れてきたのか忘れたが、ゲーム台のお金を入れる金属部分に電子ライターで「パチン」と電気ショックを与えるとクレジットが上がるという技を仕入れた。小遣いの少ない俺はもう狂ったようにこの技を使ってゲームをし、隣では針金の先を丸くお金の形にしてガシャガシャとクレジットを上げている強者もいた。しかしこの針金技は目立ち過ぎるし、たまに針金が抜けなくなって針金をブラブラさせたまま逃げちゃう人とかいたので挑戦したことはない。
しかし電子ライターは感動したなぁ。。本来お金を入れなければできないゲームが「パチン」とやるだけで面白いようにクレジットが上がるのだ。その頃の俺のポケットには必ず電子ライターの着火部分が入っていた。
数ヶ月後、さすがにゲームのメーカーも黙っておらず対策品にどんどん変わってきた。お金を入れる部分のそばに、「電気XXX対策品」とちゃんとシールが貼られており、たしかにパチンとやってもなんの反応もしない。「せっかくの天国が!なんとかしなければ!」と思った俺は、「電子ライターの火花で弱いんだったら、もっと強力な物を用意すれば」とガスレンジのでっかい火花を飛ばす部品を用意し、「この位パワーがあれば対策してあっても大丈夫だろう ガッチャン 」と火花を浴びせた。
火花を浴びせた瞬間画面が真っ黒。そう、そのゲームは二度と立ち上がる事は無かった。壊れてしまったのである。何台か壊しまくった後、壊してしまっちゃ捕まったらヤバイことになるなぁ、とこの方法は封印した。その後中学頃にはまた新たな方法でゲーム機を壊しまくる事になるのだが、その話はまたいずれすることにする。
つづく
1970年の後半、当時小学校3〜4年頃の俺は学校帰りにいつもゲームセンターに通っていた。ゲーセンの名前もインベーダーハウスというそのまんまの名前で、たしかそこにあったゲームはインベーダーとオズマウォーズだったかな、CutieQもあったような気がする。当然ゲームをやるわけだが当時の俺の小遣いは一日50円しかもらえず、50円のゲームを一日1回しかできなかった。そばで何度もやっている中学生や高校生がものすごくうらやましく思いながら、他の人がやっているゲームをずっと眺めていたものだ。
学校では「ゲーセンは不良の行くところだから絶対に行ってはいけない」という事になっていたのだが、そんなことにはお構いなしの俺は「悪いことはしたくないなぁ」という同級生を強引に誘って行っていた。
さて、ゲーセンに着くとまずランドセルを隠す。いくらクソガキの俺でもランドセル背負ったままゲーセンてのは気が引けていたのと、ゲーセンでランドセルを背負っていたら目立つからすぐ先生に見つかってしまうだろうと思ったからだ。ただ、隠し場所がまたすごいところで、すぐ隣の駐車場にある車の下に隠すという荒技を毎回使っていた。もうゲーセンに着いたら1秒でも早くゲームがしたくて、「ランドセルを隠せるスペース!」と探してたまたま目についた所が車の下だったのだろう。たまに車が無くなっていてランドセルだけごろごろと放置されてたことも何回かあった。よくつぶされなかったなと、今思い出すとそう思う。
当時、まだ街の電気屋さん全盛期で至る所に小さい電気屋さんが会った頃、50円を使い果たして暇になった俺と友達は、一緒に近くの電気屋+模型屋の中村電気にプラモデルやNゲージを眺めに行ったのだが、片隅にひっそりと日立のパソコン「BASIC MASTER Jr」がおいてあり、高校生位のにーちゃんがゲームをやっている所が目に入った。当時ゲームに目がなかった俺はすぐ反応し「俺もゲームやりたい!」と思ったのだが、その日はそのにーちゃんがいつになっても帰らなかったのであきらめて帰る事にした。これが俺が初めてパソコンに出会った日だ。
数日後、友達と一緒にまたその模型屋に行ったのだが、その日はいつも居座っているにーちゃんがすぐに帰って行った。「やった!」と小躍りしながらパソコンの前に座り、早速ゲームをしようとコマンドを打ち始める。なぜ初めてさわったのにコマンドが解るかというと、ちゃっかり者の俺はそのにーちゃんが色々なゲームを読み込んでいるコマンドをしっかりと頭に記憶させ、いつ俺の順番が来てもできるようにしていたのだ。とりあえず読み込みコマンドを入力、確か魚釣りのゲームだったかな。
LOAD ”FISH”
カチッとリレースイッチが切り替わる音が聞こえてしばらく待つが、全然始まらない。。おかしいなぁ・・・コマンドは絶対間違ってないはずなのになんでだろう・・と悩みながら、電源を入れ直してはコマンドを打ち込んでいた。どうしてもできないのであきらめて、キーボードをポチポチ打ち始める。「カナ」というボタンを押すとカタカナが出るようになり、「おお!すごい!」と自分の名前や友達の名前を入れて遊んでいた。これだけでこの時はすごく楽しかったんだよなぁ、ワープロをおぼえたての人がキーボードで画面に文字を出せたときの感動と同じかもしれない。この日は確か蝉が鳴いている真夏の土曜日。学校が終わってすっ飛んで行ったと記憶してる。
この日はこれで帰宅したのだが数日後、いくらがんばっても読み込めなかった原因が判明した。またにーちゃんが遊んでいる所を目をさらにして凝視していたのだ。よ〜〜く見ていると、にーちゃんは別のゲームを始める時に必ずカセットテープを入れ替えていて、「あれにゲームが入っているのか!」と瞬時に納得。まぁ、普通に考えれば「なんも無いところからプログラム読めるわけ無いだろ!あたりまえだ!」と思う所なのだが、ガキの俺の頭では外部に記憶したりそこから読み込んだりなんて発想はできるはずも無かった。
とりあえず、これでゲームを実行する手順は全て覚えたのだが、問題はゲームの入っているカセットをどうやって調達するかという事だ。その頃は市販のゲームなんて物は無いと行っても過言ではない時代、しかも田舎。たまに大きいデパートで売り物のゲームを発見しても、カセットテープに「カーレース」とかゲーム名が書いてあるのラベルが貼ってあるだけの代物でスクリーンショットも何もなく、どんなゲームなのかさっぱり解らない。
当時のゲームは99%ほとんど全てがクソゲー。おもしろいゲームに遭遇するなんて事は宝くじの1等に当選する位確率が低い。カセットにラベル張ってクソゲー入れとけばバカが騙されて買っていくんだから当時のソフト屋には天国のような時代だったんだろうな。
もちろん俺は購入する金もなく、迷わず万引きして実験してみたのだった。そう考えると騙されたとか文句言う筋合いは全くないか・・
つづく